長井さんの死から一ヶ月


長井さんの死を殉職とか殉死とかとは思わない。何かそう思うことは彼を英雄視するような気がする。ただカネの為に仕事をしていたとは思わないけれども、彼も今日のジャーナリストだ。契約していた通信社が取り上げそうな題材を取材していた。それがパレスチナの紛争であり、バクダッドの解放であり、タイのエイズ孤児の問題であっただけだ。もちろん彼にそういう問題に対しての意識が全くなかったとは言わないが、それを「意識」して「考える」のそれらを見る「私たち」の方だ。


大切なのは、彼の残してくれた映像から何かを感じ次に何をするか、だ。


もちろん、彼が銃撃された時持っていたビデオカメラとテープの返還を求めるのも重要。一方でパレスチナで何がおこっているか、ビルマで何が起こっているか、タイで何がおこっているか、考えることも同じように重要。


しかし、中にはそういうことを忘れて、長井さんの死、その悲しみだけに捕われている人がいる。


天国にいるであろう長井さんは、これらの人たちにこういうかもしれない。
「俺の死んだことなんかどうでもいいから、他のこと考えてよ」と言うかもしれない。
長井さんの死の悲しみは、葬儀での彼の老いた両親のやりきれない表情を見れば十分だ。


言葉は過ぎるかもしれないが、死んだ人間はもう生き返らない。死んだ人間よりも今生きている人間のことを考えなければ。


いまだにビルマ国内で軍事政権から弾圧を受けている人々。日本国内で日本政府により無謀にも軍事政権下のビルマに強制送還されそうになっている人々。パレスチナダルフール、トルコ、北朝鮮、等、紛争地域や独裁政権下で暴力、飢餓、弾圧に苦しんでいる人々。


その人たちのことを考えよう。そしてその人たちのために何かをしよう。それはちょっとした、とても簡単なことだ。