書き言葉の終焉?いえいえ、まだまだ不滅。

http://d.hatena.ne.jp/kagami/20070928#p2

今日のクローズアップ現代*1、観逃してしまった。
いわゆるケータイ小説というジャンルのものは読んだ事がない。読まず嫌いといえば確かにそう。書評でもまともに取り上げられたこと(評価されたこと)もないし、そういうものを鵜呑みにしてケータイ小説ってそういうものなんだ、と思い込んでいた節が私自身にある。
いわゆる「書きなぐり」という文体の最前線なんだろう。同時にアバンギャルドでありながらポップといったところか。単に前衛的だけではダメで、ポップ=ワンパターンのラブストーリーなければ、あれだけ若者たちに受け入れられるはずはなかった。
id:kagamiさんはケータイ小説が「硬直した文学に風穴を開け、混沌を齎して欲しいですね」とおっしゃっている。書き言葉の文学、明治〜昭和の文学が60年代のジャズやソウル、ロックなどの横揺れのグルーヴとするならなら、話し言葉の文学、ケータイ小説オルタナグランジの縦乗りのグルーヴ。このギャップは相当だ。
でもケータイ小説が私のような世代、書き言葉の文学好きに受け入れられる時に最大のネックとなるのは、やっぱりそのストーリー。ワンパターンのラブストーリーから脱すれば、多いに受け入れられるだろう。なぜならkagamiさんが述べてられているように、筒井康隆高橋源一郎が受け入れられているから。
そしてもう一つ。ケータイのハードウェアの革新的な進歩というのも必要。iPhoneのようなケータイ、音楽、ウェブのマルチなブラウザマシンのこの日本での浸透が欠かせない。そうなってこそ書き言葉の文学としての本を読むというのが本当に過去のものになるのではないか。

でも、書き言葉の文学は不滅。kagamiさんがid:finalventさんの日記で問答されているけれど、カラマーゾフの兄弟のような古典(またはその新訳)のブームはこれからも何年かごとにおきるとおもうのだが。私のような60年代のオールド・ファッションド・ラブソング好きがいる限りは。