安倍さんと彼岸花

http://www.asahi.com/politics/update/0924/TKY200709240194.html

この彼岸の三連休、急に涼しくなって、すっかり秋を感じている。それは昨日から今日にかけての降っているのか、降っていないのかわからないような雨の降りかたのせいなのか。あるいはもう一人でいることには慣れきっているはずなのに、こういう天気やすっかり短くなった日の長さが、心の中の鬱々感をいっそう重たくさせるからなのか。遠浅の海を浜辺から沖に歩いて行くような心持ちがする。
夕方安倍元総裁、明日で辞任する安倍総理大臣の会見を見る。
とにかく痩せた。窶れたといってよい。記者会見場に主治医と一緒に現れた安倍さんは、吊るしの背広がそのまま歩いてきたのか、と思うほど政治家としての張りがなかった。第一、現役の政治家が医師同伴で会見に臨むなど前代未聞の事だろう。質問の一つ一つにメモを目で負いながらうつむきかげんで答えるその声も弱々しかった。表向きには「機能性胃腸症」という診断を受けたということだが、一部で流れた自殺未遂説も信じられるような姿だった。
私には彼の政治的業績、政治的信条、政治的能力を判断する知識も関心もない。ただ彼だけではなく、政治家というものは誰であっても、この世の中の働く人と同様に結果を残さなければならない。いくらその過程が良かろうとも、結果的には、定められた期日までにある水準以上の品質のものを決められた量だけ作らなければならないのだ。実際には何度も失敗が許されるものではないし、結果を残さなければ仕事を失うということさえある。
その点から言えば、一国の政治指導者として安倍晋三という政治家は失格である。自分の閣僚の幾度かの「政治とカネ」の問題や「失言」癖にきっちりとケリをつけることが出来ず、参議院選では惨敗、その責任をとることも拒否して、秋の通常国会に望んで所信表明演説をした途端に、サッサと自分の職責を投げ出したのである。サラリーマンでいえば、プロジェクトの企画書をクライアントのいる前で説明した翌日に急に退職するようなものである。これでは国民や野党ばかりではなく与党の内部からも無責任といわれても仕方がなかった。
でも、である。でもわたしはそんな彼、安倍晋三を今、許して上げたいのである。
テレビで見た、痩せてサイズがひとまわり大きくなってしまった背広を着て記者の前に出てきた彼を見た途端、「ゆっくり休んでください。これからのことは身体がすっかり治ってからかんがえればいいじゃないですか。」と声をかけたくなった。
それは彼が「美しい国」といったのにもかかわらず、この国が年に3万人もの自殺者を出しているという、その代表というか典型を彼、安倍晋三に見たのである。そして今日の会見で12日の辞任表明では、辞任の理由として体調の不良をいうことができなかった、と話した。私はそこにこの国の典型的なサラリーマンの象徴をを見たのである。
会見を見たあと、散歩に出た。暮れ行く日の中で一輪の彼岸花が咲いていた。その名は秋の彼岸ごろに咲くからという説が一般的だが、一方でその猛毒から「これを食べたら彼岸(死)しかないから」ともいう。花言葉は「悲しい思い出」「また会う日を楽しみに」。また別名の「曼珠沙華」は「天上の花」ともいう。おめでたい事が起こる兆しに、赤い花が天からふってくるという意味の仏教の梵語に由来する。
これらの相反する意味を持つ花を見たとき、何故か政治家安倍晋三としてより、一市民安倍晋三さん個人としてのこれからを見たような気がした。